東営概況
  • 発表日:2026-05-22
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  • 情報由来:東営年鑑2025年版

【位置面積】東営市が山東省の北部黄河デルタ地域に位置し、中華民族の母親の川である黄河は、東営市の管轄区域を経て渤海に流れ込むのである。京津冀と膠東半島を結ぶ中枢に位置し、環渤海経済区と黄河経済ベルトの合流点であり、黄河デルタの中心都市である。小清河から南の方に広饒県境の土地形成は比較的に早く、2013年11月に発見された後李文化遺迹の考証によると、早くも8000年前には広饒県南部に人類が居住・繁殖していたことのは分かる。西部にある利津県は、大抵春秋戦国時代に陸地を形成し、北部及び東部は、近代に黄河泥砂の堆積で陸地を形成し、僅か百年の歴史を持っている。東営市の地理位置としては、北緯が36°55′~38°10′で、東経が118°07′~119°10′で、北部と東部は渤海に隣接し、西部は濱州市と、南部は淄博市及び濰坊市に接している。南北を経つ最大距離は123km、東西の水平方向で最大距離は74kmで、総面積は8257km2となっている。

【設立沿革】東営市の成立した以前の歴史は主に広饒県、利津県、墾利区の歴史に沿ってさかのぼるものである。市域の南部に位置する広饒県の歴史は悠久で、漢高祖6年(紀元前201年)に県を置き、市境の西部に位置する利津県は、金明昌3年12月(1193年1月)に永利鎮として利津県に昇格し、墾利区の大部分は黄河の新しい堆積地であり、1943年に、中共墾区抗日民主政権に基づいて墾利県が設立された。市の設立までに、広饒、利津、墾利の設立、所属は繰り返し変更された。

1961年4月、華北石油探査処は元広饒県辛店公社東営村附近で地域初の探査井(華八井)の発掘を成功させ、一日8.1トンの工業用石油生産量を手に入れた。それをきっかけに、華北石油会戦の幕を開いた。1962年9月23日、東営構造の上で掘った「営2号井」は、日間生産量555トンを実現させ、当時日間生産量全国一の石油井となった。この高生産量の石油井を掘った日を記念するため、勝利油田は「九二三工場」という名を付けられた。石油探査開発会戦の進行につれて、東営村当たりは徐々に油田会戦指揮部や一部の二級事業体及び後方勤務事業体により構成された鉱区町となり、「基地」と呼ばれるようになった。1965年3月、石油会戦に応援するために、中国共産党山東省委員会の承認を受け、恵民地区委員会はここで県級活動機関、中国共産党恵民地区東営活動委員会及び東営事務所を設立した。ただし、鉱区のバックアップを務める商業、金融、郵政などの機関を管轄する以外、行政管轄区はなかった。1971年6月11日、九二三工場は「勝利油田」に改名された。勝利油田の発展、または黄河デルタ開発建設の需要に応えて、1982年8月、山東省政府は省管轄の地級市、東営市の設立するように、国務院へ要請した。同年11月20日、国務院は(1982)国函字249号書類をもって、山東省政府の要請について回答し、元恵民地区の墾利、利津の2県、広饒県の4公社、沾化県の4公社、博興県の1公社と3大隊を分け与え、省管轄の東営市を設立した。1983年8月30日、国務院はさらに(1983)国函字175号書類をもって、山東省政府の要請について回答し、広饒県全域を東営市に分け与えた。1983年10月15日、東営市設立慶祝大会が開かれ、東営市は正式に成立した。(史言)

【行政区画】 1983年の成立当初、全市は東営・牛庄・河口の3区、広饒・利津・墾利の3県、ならびに3鎮、55人民公社、1780生産大隊を管轄していた。1984年に人民公社を廃止して郷に、生産大隊を廃止して村に改編した。1987年6月には牛庄区と東営区を統合して東営区とした。その後も何度か郷・鎮の規模調整が行われ、一部の郷・鎮が廃止・統合された。2016年8月には墾利県が県から区に改編された。2024年12月現在、全市には5つの県・区、25の郷鎮(23鎮、2郷)、15の街道がある。そのうち、東営区には6つの街道と4つの鎮(文匯街道、黄河路街道、東城街道、辛店街道、勝利街道、勝園街道、牛庄鎮、六戸鎮、史口鎮、竜居鎮)があり、河口区には2つの街道と4つの鎮(河口街道、六合街道、義和鎮、仙河鎮、孤島鎮、新戸鎮)があり、墾利区には2つの街道と5つの鎮(墾利街道、興隆街道、勝坨鎮、郝家鎮、永安鎮、黄河口鎮、董集鎮)があり、広饒県には3つの街道と6つの鎮(広饒街道、楽安街道、丁庄街道、大王鎮、稲庄鎮、李鵲鎮、大碼頭鎮、陳官鎮、花官鎮)があり、利津県には2つの街道と4つの鎮と2つの郷(利津街道、鳳凰城街道、北宋鎮、陳庄鎮、汀羅鎮、塩窩鎮、明集郷、刁口郷)がある。(出典:市民政局データ 高骞)