文化

発表日:2018-09-04 閲覧回数: フォント:[ 大きい 正常である 小さい ]

黄河文化

東営は、黄河の下流に位置しており、東営地域文化も黄河文化システムを構成する重要部分の一つである。出土文物から考証した結果によると、広饒県の傅家、営子などの遺跡が大モン口文化及び龍山文化に所属し、そのうち、多くの出土文物は強い典型性や代表性を持っている。大モン口文化及び龍山文化は中華民族の先史文化、即ち黄河文化の主な発祥元の一つである。従って、東営地域の先史文化は、既に中華民族の主流文化——黄河文化のシステムに融合され、輝いた中華民族の古代文明の形成や発展に貢献を果した。

石油文化

20世紀60年代に石油開発が始まる前、東営地域の全体的な経済発展水準は低下し、山東北部の経済後進地域と見られていた。1961年4月に、石油探査チームは東営村周辺に華八井を掘削したところ、工業用オイルフローを探索した。1964年1月に、中国中央政府から批准されてから、黄河三角洲の「石油開発大会戦」が本格的にスタートし、黄河三角洲開発・建設のの新しい一章をつづった。四十数年以来、勝利油田に働いていた数十万の採掘作業者が蒼い空の下で、荒れ野へ踏み込み、刻苦創業を堅持し、全国第二大の油田を建設して完成させた。

呂劇文化

呂劇という民間芸術が東営区時家村から発祥したのは、その特殊的な歴史背景及び地域条件に影響されている。東営地域は黄河の下流に位置し、頻繁的な黄河氾濫は、河口に住んでいた民衆に重い災難をもたらした。黄河が決壊した際に、人々は心ならずも故郷を離れ他郷で生計を立て、所々へ乞食をした人も少なくなかった。銭や食べ物をもっと多く貰うために、たくさんの農民は民間歌曲を歌いながら乞食を行い、だんだん旅芸人の集団を形成してきた。東営区牛荘鎮時家村の時殿元は、その旅芸人においても傑出した代表人物である。彼は幼い頃に民間歌曲を歌いながら乞食をしていたが、その後に山東琴書を歌うことで郷里で名が広く知られた。清光緒二十六年(1901年)に、彼は初めて琴書の曲「ろ馬を追いやる王小」を化粧揚琴に改版し、山東琴書に演劇の特徴を付け、呂劇を創造した。

革命文化

東営地域の延集村と劉集村には、1925年に中国共産党の地下組織が結成され、山東省において最も早く設立された農村党支部である。1926年に、中共劉集村党支部の研修用『共産党宣言』は、劉集村の数名農民党員が命の危険を冒して保存してきた物であり、現存した『共産党宣言』の中訳版の中で時期が一番早い物でもある。現在、全国において二冊しか残されていない国家一級文物である。

移民文化

東営の住民は中国の四方八方から転住した人であり、主に原住民、勝利油田、中国石油大学(華東)、済南軍区生産基地などからの移住者から構成されている。184万人口のうちに、36個の少数民族が共に暮らしている。移住者がもたらした異なる地域の背景及び特色のある文化は此処でぶつかり合い、組み合わせて融合し、東営地域の多彩な移民文化を形成した。

古斉文化

およそ紀元前1056年に、周武王が紂王を討伐して商朝を滅ぼし、周王朝を建て、臨淄、広饒、博興あたりの蒲姑氏国の土地を東夷人の姜太公に下賜したことから、斉国が成立された。今の東営地域は斉国領地の一部分になる。現在、広饒域内に位置する柏寝台は、かつて斉桓公が諸候と会見した場所であり、斉国の隆盛さを示す証でもある。春秋戦国時代には、此処で中国古代に初めて戦略思想を形成した偉大な人物ーー孫武が誕生した。孫武は斉国楽安(現在広饒県域内)に生まれ、彼は斉文化の集大成した者であり、歴史上では「武聖」と呼ばれる。

海洋文化

東営は、環渤海の奥地に位置しており、海岸線が全長412.67キロメートルで、マイナス10メートルの等深線以内にある浅海面積が4800平方メートルである。海洋は、東営人民が生存し発展を図るための重要的な環境である。長い歴史歳月の中で、黄河が此処より渤海に注いだため、東営人は早い時から海洋と接触し、海洋資源を開発し、困難にくじけずに自らの海洋経済及び海洋人文モードを発展しながら、深く豊かな海洋文化を積み上げていた。海洋文化と黄河文化は此処で集めて、融合している。